セレッソ大阪がチームとして始動したのが1994年。その年のJFLで優勝したのが、初めてのタイトル獲得なのだが、2回目までにこんなに時間がかかるとは、正直なところ思ってもみなかった。


「5回も(タイトルまで)『あと一歩』を経験したのは僕ぐらいでしょう」。ことあるごとに話していた森島寛晃。背番号8を背負い、小気味よいプレーで私たちを楽しませたレジェンドが2008年に現役を引退してから、もう9年。その森島がアンバサダーとしての活動を経て、チーム強化を担当するようになった1年目のシーズンに、Jリーグ昇格以来初のタイトル獲得…不思議なめぐり合わせを感じる。

 ルヴァンカップ決勝の後、「今まで勝負弱い森島ということでしたが、試合前から選手たちが『自分たちの手で歴史を変える』と言っていました。今の選手たちは勝負強さを持っていて、今日は改めてそれを見せてもらった」と、話した森島(当日のコメント )。4年前に聞いた、「(優勝を逃し続けたのは)あと一歩のところで何かが足りなかったのでしょう。でも、今の若い選手はあと一歩をクリアしてくれる。きっとファーストチャンスをモノにしてくれるはず」という言葉通りになった。

優勝してカップを掲げる森島寛晃(写真左)、尹晶煥監督

 森島から始まったセレッソ大阪の歴史。西澤明訓、大久保嘉人らが加わり、2006年以降、香川真司、柿谷曜一朗、乾貴士、清武弘嗣らが加入、アカデミーからは山口蛍、丸橋祐介、杉本健勇、南野拓実らが合流して、今のセレッソをかたち作っていった。チームの象徴である背番号8は、森島、香川、清武と継承され、ルヴァンカップ決勝のピッチには、8番を着けた柿谷と、“先代の8番”である清武が立った。

 優勝カップを掲げたのが、生粋のセレッソ育ちの柿谷であったことは、クラブの歴史と、多くの選手、スタッフたちが積み上げてきたものの重みを感じさせる。柿谷が紆余曲折を経て――2度、他クラブに移ったが、いずれも復帰して――今のチームの先頭に立っていることも、深い縁のようなものを感じるのだ。

 監督の尹晶煥もまた、クラブのレジェンドといえる。2000年に加入したMFは、それまでの韓国人選手のイメージとは違う、華奢な印象のテクニシャンだった。副島博志監督(当時)の掲げるアタッキングサッカーをボランチとして支えたが、森島とともに、2000年の「5.27」(川崎フロンターレに敗れて優勝を逃す)を経験した。
続 セレッソ・アイデンティティ|第7回:わたしの5.27 
 
「川崎フロンターレと言えば、17年前のことを思い出します。優勝を目の前にして、逃してしまった記憶が僕には残っていますけど、17年経って、その借りを今日返すことができた」と、ルヴァンカップ決勝後に語った尹(当日のコメント )。
 あの衝撃的な出来事は、輝かしい初タイトルで上書きすることができた。「こういうふうに結果が出て、歴史を刻めるのだと思います。今日の結果で、セレッソの新しい歴史が始まります」。尹の言葉どおり、セレッソ大阪は新たな一歩を踏み出した。

初めてのタイトル~「人」が作ってきたクラブの歴史②

文・横井素子

第16回:初めてのタイトル~みんなのルヴァンカップ①
第17回:初めてのタイトル~みんなのルヴァンカップ②

◆横井素子 プロフィール
奈良県奈良市生まれ。広告代理店勤務のあと、フリーランスの編集・ライターとしてセレッソ大阪の広報ツールの制作などに携わる。
1999~2000、2008~2011年はセレッソ大阪トップチーム広報担当、現在はセレッソ大阪堺レディース広報担当、セレッソ大阪公式ファンサイト編集責任者を務める。