7月27日の早朝、セレッソ大阪選手寮の秀島弘寮長が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
◆訃報
秀島さんがセレッソ大阪に来られたのは2003年でした。以来13年半もの間、選手寮の寮長として、また選手に食事を提供する厨房の責任者として尽力いただきました。
寮長の作る料理は抜群においしかったです。毎日、毎食、心を込めて出された食事が寮生たちの体を作り上げたと言っても過言ではありません。また、季節折々の食材を入手しては、巧みに調理して寮生たちを喜ばせました。U-18が初優勝した2014年12月の高円宮杯U-18サッカーリーグ2014 チャンピオンシップでは、弁当にタラバガニを詰めて選手を送り出しました。チームを勝たせるために、常に全力を尽くす仕事ぶりは間違いなく選手に伝わっていました。
食事以外にも、寮長の選手への影響は、はかり知れないものがありました。常々、若い選手たちに言い続けた言葉があります。
「ピッチの中に入ったら命がけでやれ!」
「料理人もサッカー選手も、技術者という点では同じ」
仕事に対しては格段の厳しさを求めました。それができていない寮生については、自分の前に呼んで、懇々と諭すのが常でした。
といっても、ただ厳しいだけではありませんでした。
「寮は、選手にとっての“家”であるべき。厳しくするだけがすべてではなく、やすらぎの場でなくてはいけない」という強いポリシーがありました。寮長は、寮生全員が好きで仕方がなかったようです。どの選手に対しても、自分の子のように接していました。寮を卒業した選手たちが、懐かしく寮長のことを思い出すのは、こうした温かさを感じていたからにほかなりません。
厳しさと温かさ、両方を持って寮生と向き合う。それは13年半の間、まったくぶれることがありませんでした。プロフェッショナルとしての矜持を感じる見事な仕事ぶり、生きざまでした。
前述した2014年12月14日の高円宮杯チャンピオンシップには、埼玉スタジアム2002までU-18の激励に出かけました。初優勝が決まったあと、選手たちが最初に胴上げしたのは寮長でした。「いいものを見せてもらった」と感激しきりで、サポーターの皆さんの「秀じいコール」を聞いてとても喜んでいました。
今年7月初旬に入院する直前まで厨房に立ち、包丁を握っていた寮長。ドクターストップがかかるなか、仕事の引き継ぎのための打ち合わせにも同席いただき、最後まで仕事をまっとうされました。真のプロフェッショナルの姿でした。
お世話になった寮生は数えきれません。香川真司、柿谷曜一朗、山口蛍、扇原貴宏、杉本健勇、南野拓実…多くの“教え子”たちは、セレッソで、そして世界に羽ばたき活躍の場を広げています。そして今、U-18やU-23でプレーする多くの寮生たち、彼らの心にも教わったことが刻まれています。これからも、寮長の言葉を忘れず、プロサッカー選手として、歩んでいくはずです。
「自分が生きているうちにJ1で優勝してほしい」。寮長はいつもおっしゃっていました。
「ユースから育った選手が中心になって、優勝してほしい。それが見たい」。本当に残念ですが、かなえることができませんでした。
寮長の思いは、子どもたちが引き継ぎ、必ずかなえてくれるはずです。ですから、どうぞ安らかにお眠りください。
秀島さん、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
◆訃報
秀島さんがセレッソ大阪に来られたのは2003年でした。以来13年半もの間、選手寮の寮長として、また選手に食事を提供する厨房の責任者として尽力いただきました。
寮長の作る料理は抜群においしかったです。毎日、毎食、心を込めて出された食事が寮生たちの体を作り上げたと言っても過言ではありません。また、季節折々の食材を入手しては、巧みに調理して寮生たちを喜ばせました。U-18が初優勝した2014年12月の高円宮杯U-18サッカーリーグ2014 チャンピオンシップでは、弁当にタラバガニを詰めて選手を送り出しました。チームを勝たせるために、常に全力を尽くす仕事ぶりは間違いなく選手に伝わっていました。
食事以外にも、寮長の選手への影響は、はかり知れないものがありました。常々、若い選手たちに言い続けた言葉があります。
「ピッチの中に入ったら命がけでやれ!」
「料理人もサッカー選手も、技術者という点では同じ」
仕事に対しては格段の厳しさを求めました。それができていない寮生については、自分の前に呼んで、懇々と諭すのが常でした。
といっても、ただ厳しいだけではありませんでした。
「寮は、選手にとっての“家”であるべき。厳しくするだけがすべてではなく、やすらぎの場でなくてはいけない」という強いポリシーがありました。寮長は、寮生全員が好きで仕方がなかったようです。どの選手に対しても、自分の子のように接していました。寮を卒業した選手たちが、懐かしく寮長のことを思い出すのは、こうした温かさを感じていたからにほかなりません。
厳しさと温かさ、両方を持って寮生と向き合う。それは13年半の間、まったくぶれることがありませんでした。プロフェッショナルとしての矜持を感じる見事な仕事ぶり、生きざまでした。
前述した2014年12月14日の高円宮杯チャンピオンシップには、埼玉スタジアム2002までU-18の激励に出かけました。初優勝が決まったあと、選手たちが最初に胴上げしたのは寮長でした。「いいものを見せてもらった」と感激しきりで、サポーターの皆さんの「秀じいコール」を聞いてとても喜んでいました。
今年7月初旬に入院する直前まで厨房に立ち、包丁を握っていた寮長。ドクターストップがかかるなか、仕事の引き継ぎのための打ち合わせにも同席いただき、最後まで仕事をまっとうされました。真のプロフェッショナルの姿でした。
お世話になった寮生は数えきれません。香川真司、柿谷曜一朗、山口蛍、扇原貴宏、杉本健勇、南野拓実…多くの“教え子”たちは、セレッソで、そして世界に羽ばたき活躍の場を広げています。そして今、U-18やU-23でプレーする多くの寮生たち、彼らの心にも教わったことが刻まれています。これからも、寮長の言葉を忘れず、プロサッカー選手として、歩んでいくはずです。
「自分が生きているうちにJ1で優勝してほしい」。寮長はいつもおっしゃっていました。
「ユースから育った選手が中心になって、優勝してほしい。それが見たい」。本当に残念ですが、かなえることができませんでした。
寮長の思いは、子どもたちが引き継ぎ、必ずかなえてくれるはずです。ですから、どうぞ安らかにお眠りください。
秀島さん、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
大阪サッカークラブ株式会社
一般社団法人セレッソ大阪スポーツクラブ
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