昨夜、訃報が飛び込んできた。セレッソ大阪の初代監督、パウロ エミリオさんがブラジル時間の5月16日、リンパ腫のために享年80歳で逝去されたという。
「大変懐かしい名前をこのようなことで聞き、本当に残念に思います」とは玉田稔社長のコメントだが、まさにそんな気持ちだ。懐かしい、そして寂しい。

 1994年、セレッソ大阪の誕生と同時に、ブラジルから日本に、大阪にやってきた「パウロ エミリオ監督」。典型的なブラジリアン、ラテン気質の気さくな“おじいちゃん”だった。当時のチームは尼崎のグラウンドをベースに活動していたから、エミリオさんも尼崎に住み、地元の商店街を自転車で駆ける様子がしばしば目撃されていた。「あ、エミリオさんや!」。声を掛けられると、笑顔で応え、サインや写真撮影にも心安く応じていた。

 一方で、ピッチでは緻密なプランのもと丁寧に選手たちを導いた。自らのチームづくりについて、わかりやすく家づくりをたとえにし、絵を描いて説明してくれたことを覚えている。「チームづくりの土台、礎はフィジカルだ。そして、その上にテクニカルなトレーニングを積む。これは壁に相当する。その上で初めて屋根に取り掛かる。つまり、戦術トレーニング、セットプレーなどを行う。家と同じように、チームも段階を経て作られていくんですよ」。今でこそ当たり前のようなことを、わかりやすい言葉で説明してくれた。選手やスタッフに対しても同じだったはずだ。

 よちよち歩きのチーム、クラブにとって、コーチ歴30年のベテラン監督の力は絶大だった。「私はセレッソをJリーグに上げるためにやってきました」「今年は、セレッソがJFLでプレーする最後の年です」。シーズン前のエミリオさんの言葉に、どんなに勇気づけられたことだろう。
「Jリーグへ行こう!」チーム、クラブが1つになるのに時間はかからなかった。この人についていけば、大丈夫。こうして「セレッソファミリー」が誕生したのだ。

 Jリーグ入りを懸けて戦ったJFLは、決して楽なものではなかった。何かが違っていたら、失敗してもおかしくなかった瞬間は、いくつもあった。でも、誰もがファミリーの長、エミリオ父さんを信じていた。だから、きわどい勝負に勝ち、JFL優勝、最短でのJ昇格という栄光をつかむことができた。続く天皇杯では、Jリーグの先輩チームを次々と破り、決勝に進出。胸のすくような思いもさせてもらった。

 Jリーグに昇格した1995年には狭心症の発作を起こし、休養したこともあった。翌1996年、成績不振の責任を取り辞任しチームを去ったエミリオさん。昇格2年目、チームを継続して強くしていくことの難しさに直面した形だった。次のシーズンには、チーム体制は一新され、新進気鋭の新監督、レヴィー クルピ氏を迎えることになる…。

 懐かしい思い出が次々によみがえり、きりがなくなりそうだ。訃報を聞いて、1994年の『イヤーブック』を久しぶりに開いたら、表紙の裏の広告にエミリオさんの満面の笑みがあった。ボールを脇に抱えた紺色のジャケット姿。実はこのジャケットは玉田社長のものだ。撮影時にラフなセーター姿で登場した監督に、当時広報部長だった玉田社長が、自分が着ていたジャケットを貸したのだ。お茶目な、でもサッカーに対してはいつも真摯で、なによりも心からサポーターを愛し、そして愛されたエミリオさん。心からご冥福をお祈りします。22年前、セレッソに来てくださって、本当にありがとうございました。どうぞ安らかに。

「お互いに理解し合うことが、なによりも大切だ。それこそがセレッソファミリーであるということだから」(パウロ エミリオ)
文・横井素子


◆横井素子 プロフィール
奈良県奈良市生まれ。広告代理店勤務のあと、フリーランスの編集・ライターとしてセレッソ大阪の広報ツールの制作などに携わる。
1999~2000、2008~2011年はセレッソ大阪トップチーム広報担当、現在はセレッソ大阪堺レディース広報担当、セレッソ大阪公式ファンサイト編集責任者を務める。