前編からつづく

「一番よく言うことをきいたんは香川(真司)くんやな」。秀島さんは話していた。
「絶対に勝負どころを間違えたらアカン。流されたらアカン。自分の意思をしっかり持って、もうひと皮むけてから行こうという気迫がなかったらダメだ」2009年の年末、ボルシア・ドルトムント(ドイツ)への移籍を決断しようとした香川真司選手にこうアドバイスをした。

 半年後、移籍が決まってドイツに渡る直前、香川選手は寮に秀島さんを訪ねた。
「寮の玄関の前で泣いた。ワシに食らいついて香川くんは泣いたよ。びっくりするぐらいの大声やった。一瞬驚いた。ああ、この子はホントに自分を慕ってくれているんやなと思った」
 そんな話をする秀島さんは、いつも本当にうれしそうだった。
「香川くんには、ええことばっかり言ったわけやない。でも、心を打たれるようなことが、何回か生じてたんやと思う、私が言うたことで。そんな子と出会えたことは、自分の運の強さ。香川くんみたいな選手は、もう出て来ないかなぁ…それに近い選手は出て来るかもわからんけど」とも話していた。

「(山口)蛍は、女房が親代わりになって世話を焼いていた。その当時はあまり感じていなかったみたいやったけど、月日が流れたらわかったんやな。感謝の気持ちがわかる大人になって、それが伸びるきっかけになった。蛍には、『日本代表ぐらいでは満足してたらアカン、ワールドカップの代表にならないとアカン。しっかり努力しなさい』と言ったんよ」
 2013年夏の秀島さんの言葉である。その1年後、山口蛍はワールドカップに出場した。

 選手にしてみれば、少々けむたい存在だったかもしれない。現在スクールコーチを務める白谷建人も、「当時は、なにかと理由をつけては寮のごはんを食べなかった。叱られても内心『何言うてんねん』と思っていた」とインタビュー で語っていた。セレッソを離れて、初めてそのありがたみを感じたとも。

 ここ数年は、寮の食事を紹介するコラムを担当していたことで、数カ月に1度、秀島さんを訪ねた。食事についてのコメントをもらうと、あとはもっぱら寮生のことやチームのことについて雑談を交わした。「○○選手はどうしようもない子やった。でも、じっくり話したら変わってきたよ。よくなった。もう大丈夫や」。いつも口調は厳しかった。でも深い温かみがあった。
 ただこの1、2年は、チームやクラブに対するお叱りの言葉が多かった。「こんなことしてたらアカン!」。J2で苦戦するセレッソを誰よりももどかしく思っていた。

 それでも、2014年12月の高円宮杯U-18サッカーリーグ2014 チャンピオンシップの優勝については、「あれはよかった。ホンマによかった」。そう繰り返し言っていた。寮の食堂には、選手たちと一緒に笑顔を見せる写真が飾られていた。

「あと何年仕事ができるか、あと何年生きられるかわからんけど、ユースの選手をどんどん上げていって、そのユースの選手で優勝してほしい。チームを自分が引っ張っていくという愛情を持った選手が何人か出てきたときに、それはすごい力になる。エエ子はいっぱいいるよ、ここ(寮)に」
 心残りがあるとすれば、「生きている間にセレッソ大阪がJ1で優勝する」という願いがかなわなかったことだろう。

「あと何年いるかわからんけど、おれる間は仕事をやっていきたいと思うんよ」。その言葉通り、生涯現役を貫かれた。プロの料理人として、そして選手を導く寮長としての仕事をまっとうされた。
「私は体が丈夫なんや」「風邪をひいても数時間で治す。寝込むとはない」といつも話されていたから、まだまだ元気でいてくださると思っていた。寮に行けばいつでも会えて、話を聞かせていただけると思っていた。もっともっといろいろな話をお聞きしたかった。教えていただきたかった。それが残念で、悔しくてならない。

 セレッソにとって唯一無二の存在であった、秀島さん。長い間、ありがとうございました。本当にお疲れさまでした。心から、ご冥福をお祈りいたします。

文・横井素子


◆横井素子 プロフィール
奈良県奈良市生まれ。広告代理店勤務のあと、フリーランスの編集・ライターとしてセレッソ大阪の広報ツールの制作などに携わる。
1999~2000、2008~2011年はセレッソ大阪トップチーム広報担当、現在はセレッソ大阪堺レディース広報担当、セレッソ大阪公式ファンサイト編集責任者を務める。