2019年11月30日、J1リーグホーム最終節が行われたヤンマースタジアム長居ではなく、皇后杯3回戦が行われた広島にいた。清水戦はリアルタイムでは見られなかったが、0-1から水沼宏太のゴールで追いつき、柿谷曜一朗が逆転ゴールを上げた…!という劇的な経過はチェックしていた。試合後の藤本康太の引退セレモニーは少しだけ、見た。

「引退します」
 本人から聞いたのは、発表の直前だった。まだ33歳、でも「早すぎる」とは言えなかった。センターバックというポジション柄、そしてガッツあふれるプレースタイルから、常にケガと隣り合わせ。今年8月には頭蓋骨骨折、脳挫傷 という大きなケガを負った。清水戦後のコメント にもあったように、まだサッカーをできる状態には回復はしていなかった。
「引退は残念だけど、(命が)助かってよかったね」
「ホントにそうですね」
 こんなやりとりも、ふっきれた口調だった。

 セレッソ一筋15年。高校を卒業してセレッソ入りしたのは2005年だった。あの、J1リーグ最終節でFC東京に追いつかれ、優勝を逃した試合に彼は先発出場した。「なにがなんだかわからないぐらい緊張していました」と振り返り、「そのなかで、森島(寛晃)さんや西澤(明訓)さんはすごく落ち着いていて、驚いたし力をもらいました」とも話していた。目の前で同点ゴールが決まり、タイトルが手からすり抜けるという痛恨の経験をばねに、めきめきとたくましさを身に着けていった。

 身体能力が高く、器用だったから、いろいろなポジションをこなした。そういえば、交代枠を使い切ったあとでGKが退場となり、急きょGKを務めたこともあった。タイトルにはなかなか恵まれなかったが、2017年にはルヴァンカップ、そして天皇杯を獲った。康太がベテランDFとしてチームを陰で支え、仲間たちを鼓舞し続けた結果の栄冠であったと思う。

 セレッソの「4」は特別な背番号だ。ディフェンスの選手で、能力はもちろんのこと、キャプテンシーなどの人間性も併せ持つ選手によって代々受け継がれてきた。康太は番号にふさわしい選手だった。まじめで律儀で、そして誰に対してもいつでも優しい。広報時代を含め、ピッチ内外で何度助けられたことか。やんちゃな若手選手をいさめ、きちんと取材を受けるよう促してくれたこともあった。それもあくまでさりげない形で。

 2006年と2014年、2度のJ2降格とそのあとの昇格を経験した。昨シーズン、セレッソ大阪堺レディースが2部に降格した直後、スクール訪問で南津守を訪れた際に「僕でよかったら…」と声をかけにきてくれた(レディースブログ)
「降格しても、みんなで頑張ってまた昇格すればいいんだから、全然問題ないよ。仲間と一緒に力を合わせて昇格できれば、その喜びはすばらしいものになる」
 言葉通り、レディースの選手たちは今季1部復帰を果たした。

 あらためてDAZNで清水戦後のセレモニーを観た。古橋達弥、濱田武、乾貴士、南野拓実、香川真司、かつてともにプレーした選手たちから心づくしのメッセージが寄せられた。ともにディフェンスラインを支えた茂庭照幸、酒本憲幸、山下達也はピッチに登場してねぎらった。その中心に康太がいた。
 こういう温かく、最高にかっこいい選手たちによって、セレッソ大阪は作られてきた。今まで歴史を紡いできたのだ。そして、これからも続いていく。康太が、セレッソにいてくれて本当によかった。ありがとう、お疲れ様でした。これからの人生もすばらしいものになりますように!

文・横井素子

清水戦後の挨拶 で、たくさんの感謝を語った藤本康太選手。


◆横井素子 プロフィール
奈良県奈良市生まれ。広告代理店勤務のあと、フリーランスの編集・ライターとしてセレッソ大阪の広報ツールの制作などに携わる。
1999~2000、2008~2011年はセレッソ大阪トップチーム広報担当、現在はセレッソ大阪堺レディース広報担当、セレッソ大阪公式ファンサイト編集責任者を務める。