オールドファンには、「ああ、昔はDFやっていたあの選手ね」と、懐かしく思う人も多いだろう。今シーズンからトップチームでヘッドコーチを務める村田一弘は、セレッソ大阪と大分トリニータでプレー。指導者としてもこの2クラブでキャリアを重ねてきた。

一度は離れたサッカー、周りの人の尽力で“復帰”


 忘れられないのは、1994年の第74回天皇杯での姿だ。特に準決勝・横浜マリノス(当時)戦での先制ゴールは強く印象に残っている。JFL優勝の勢いを駆って快進撃を見せたあの大会でのプレーは、村田一弘の真骨頂といっていい。懐かしい思い出話は、セレッソ大阪の前身であるヤンマーサッカー部時代…のさらに前から始まった。
「高校は国見高校(長崎)です。当時はFWでした。(高校)選手権優勝?そうですね」


 名門・国見高校が、1987年に全国高校サッカー選手権で初優勝を果たした時のメンバーだった。卒業後は、長崎を離れて東京の中央大学に進んだ。
「大学ではDFやボランチをしていました。1年先輩だったのが大熊(裕司)さん。そこで接点があったんです。ただ、1年生の時に親父が亡くなって、大学を中退し、サッカーはやめました」

 大学生から一転、一家の稼ぎ手になった村田は長崎に帰ることになった。
「1年ぐらいアルバイトしながら仕事を探して、三菱重工の下請け会社にお世話になったんです。そのころ、『地域のクラブでサッカーやらないか?』って誘ってもらったけど、『やらない』って断りました。だって、サッカーしていてもしょうがないじゃないですか。当時はJリーグもなかったし、自分はお金を作らなきゃいけなかった。それに、大学を辞めるとき、サッカーの用具一式を人にやってきたんです。『用具を持っていない』と断ったら、地元の先輩たちが揃えてくれました。そして、何カ月かしてサッカーをもう一度始めました」

 高校時代のチームメイトらを通じて、「村田が帰って来た」という話は自然に広まった。
「しばらく地域のクラブでプレーしていたら、九州リーグの三菱重工長崎に誘ってもらいました。サッカーは遊びでいいと思っていたんですけど、『上のほうでやれば』『行っておいで』と周りの人が言ってくれて、三菱重工長崎に入りました。仕事は普通にしていました。バブル時代だったから残業も多くて、練習は土曜の午後と日曜と、週1回定時上がりだった水曜の夜。そういうのが3、4年続きました」

 国体のメンバーに入ったころ、転機が訪れた。Jリーグ入りを目指して本格的に動き始めていたヤンマーのセレクションを受けることになったのだ。
「その時も、高校時代からの知り合いや先輩の皆さんがいろいろと世話をしてくれました。高校の小嶺(忠敏)先生にも相談して、ヤンマーを受けることにしました。自分はFWだったんですけど、そのころヤンマーにはブラジル人の体の大きなFWがいて、ポジション争いをしてもかなわないなと思いました。だからセレクションで『ポジションはどこがやりたい?』と聞かれて、『センターバックです』って答えたんです(笑)。大学で1年だけ経験があったから、できなくはないかなと(笑)。同期は、見崎(充洋)や竹花(友也)、同い年の塚本(明正)や宮本(功)が大学卒で1年早く入っていました」

Jリーグ昇格を目指して戦った1994年JFLでの村田。ディフェンスの中心としてプレー、昇格に大きく貢献した

 1993年、村田はヤンマーで「プロサッカー選手」になった。ヤンマーは、翌94年に「セレッソ大阪」と名前を変えて新たなスタートを切った。監督には、ブラジル人のパウロ・エミリオ氏が就任し、チームも大きく変貌を遂げた。
「選手が入れ替わって、新鮮でした。外国籍選手も替わったし、久高(友雄)さん、佐々木(博和)さんたちが入ってきて、明るい雰囲気にもなりましたね。経験があって、でもおちゃらけもできておもしろくて、雰囲気も読める人たちだったから、僕らも委縮することなくできました。サッカーでは、僕自身も結果を残さないといけなかったので頑張りましたよ。最初はBチームでしたけど、あの頃はBチームにもサテライトリーグというリーグ戦があって、華やかでした。Jリーグのチケットがなかなか取れない時代だったから、サテライトリーグも有料なんだけど、お客さんがいっぱい入って…。すごいなぁと思いました」

2nd HALFへつづく

文・構成 横井素子



【むらた かずひろ】
1969年5月12日生まれ、長崎県出身
国見高校、中央大学、三菱重工長崎を経て、1993年にセレッソ大阪の前身・ヤンマーに加入、Jリーグ昇格に尽力した。1998年に大分トリニティ(現トリニータ)に移籍。
J1リーグ61試合出場、J2リーグ44試合出場1得点。2001年から大分U-18を指導、2010年にセレッソへ復帰し、U-18ヘッドコーチに就任。今シーズンから、トップチームのヘッドコーチを務めている。
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