オールドファンには、「ああ、昔はDFやっていたあの選手ね」と、懐かしく思う人も多いだろう。今シーズンからトップチームでヘッドコーチを務める村田一弘は、セレッソ大阪と大分トリニータでプレー。指導者としてもこの2クラブでキャリアを重ねてきた。

「どうしても現場で仕事がしたい」
再びセレッソへ

第4回 1st HALF 

 1994年のJFLで優勝し、Jリーグ昇格を果たしたチームで、村田はポジションを獲ることに成功した。そして、天皇杯での活躍につながっていった。
「準決勝の横浜戦(1994年12月23日@神戸ユニバー)の先制点はよく覚えています。ディフェンスはトニーニョと僕と川前(力也)の3枚。ゴールは川前のハーフウェイラインぐらいからのクロスから決めたんですけど、なんで自分が前にいたのか、今でもよくわからないです(笑)」

1995年1月1日、セレッソ大阪として初めて天皇杯決勝(vsベルマーレ平塚)に臨んだ。
村田は後列中央、懐かしいメンバーたちが並んでいる

 強豪・マリノスを延長戦の末に撃破し、国立の決勝に駒を進めた。浮き足立つ周りの選手たちをよそに、一人飄々としていたのが村田だった。「満員の国立競技場」は、すでに高校時代に経験済み。しかもチャンピオンになっているのだから、当然と言えば当然だった。
 Jリーグ昇格、天皇杯準優勝に尽力した村田は、選手としてもキャリアを積んでいった。セレッソでは97年シーズンまでプレーした。
「クビになりました。広島のセレクションを受けたけどダメで、大分に同級生がいたので、紹介してもらって取ってもらったんです。大分では3年間プレーしました。
 指導者になる気持ちですか?全然なかったですね。現役最後のシーズンに入る前に、ユースの監督だった皇甫官(ファンボ・カン)さんに、『一緒にユースをやらないか?』と誘ってもらいましたけど、その時は断ったんです。『まだ選手をやります』と言って。翌年、2001年にたまたまユースのコーチの枠が空いて、もう一度ファンボさんに誘われました。(選手としては)そろそろかなという気持ちもあって、大分は『育成も強くしなければ』という時期。熱心に言ってもらったのもあって、決めました」

 2001年から2009年まで、大分で主にU-18を指導。その間、「大分ユースの最高傑作」と言われた清武弘嗣らを育て上げた。
「2009年に大分の経営がうまくいかなくなったとき、自分に『強化部長になれ』という話が来ました。そのときに相談したのが、(セレッソで育成担当だった)宮本(功)でした。それまでもユースの大会に呼んでもらったりして、連絡はずっと取っていました。『どうなの?』と聞かれて、『自分は現場がやりたい』と。強化部長として助けてほしいと言われて、やらなきゃいけないと思いながらも『自分には人のクビを切ったり減俸したり…は無理だ』という思いがありました。そのとき宮本は遠征でオランダにいたんですけど、途中で帰ってきてそのまま大分に来て、ファンボさんと話をしてくれました。大分との契約はまだ残っていたけれど、宮本が交渉してくれて、大阪に来ることになったんです」

 不安は、なくはなかった。村田が就任した2010年、U-18は大熊裕司が監督に就任することが決まっていた。
「『大熊さんがどんな指導をするか知らないけど、大丈夫か?俺、邪魔にならんか?』と宮本に聞きました。そうしたら『大丈夫、大丈夫』って。一方で、勝負したいという気持ちもありました。大分でファンボさんに教えてもらっていたけど、自分の指導が通用するのかと。いずれS級ライセンスを取りたいという思いもあって、それも受け入れてもらえた。ライセンスも取れるし海外にも行かせるからって言ってもらって、大阪に来てけた違いの経験をさせてもらいました。セレッソはヨーロッパへ遠征に行くじゃないですか。びっくりしました。そういうお金を稼いでくれているなんて、すごいなぁって」

ADDITIONAL TIMEへつづく

文・構成 横井素子



【むらた かずひろ】
1969年5月12日生まれ、長崎県出身
国見高校、中央大学、三菱重工長崎を経て、1993年にセレッソ大阪の前身・ヤンマーに加入、Jリーグ昇格に尽力した。1998年に大分トリニティ(現トリニータ)に移籍。
J1リーグ61試合出場、J2リーグ44試合出場1得点。2001年から大分U-18を指導、2010年にセレッソへ復帰し、U-18ヘッドコーチに就任。今シーズンから、トップチームのヘッドコーチを務めている。
セレッソ大阪 スタッフ紹介