2015年、セレッソ大阪に帰ってきた白谷建人。20代半ばの若さでの現役引退には、思いがけない理由があった。サッカースクールでコーチとして働き始めた彼が、セレッソへの思い、サッカーへの思いを語る。
第6回 1st HALF 

子どもたちには、
自分のようにならないでほしい


 2010年にセレッソを出て、水戸、岡山、熊本、そして町田。クラブを転々したプロ生活を振り返った白谷建人は「後悔しかない」と話す。
「水戸でも岡山でも、自分なりに努力して、サッカーにも取り組んだつもりでしたが、嫌なことがあると、どうしても顔に出てしまうし、言葉にしてしまう。我慢できずに、また違うチームに行って…。心の底からサッカーを楽しむことはなかったです。唯一、岡山で点を取れたときぐらいですね、プロ生活でやれたかなと思うのは。あのころはコーチが信頼して自分を使ってくれたのがわかったし、頑張って点を取りたいという気持ちにもなりました」

自らを反面教師にサッカーを教える。子どもたちへのまなざしは、優しく温かい

 もし、セレッソに入った2008年の自分に声を掛けるとしたら、言いたいことはあるか? そう尋ねると、即、答えが返ってきた。
「あります。『我慢だ、我慢しろ』って言いたい。できなかったですね、我慢が。ずっと言われてきたんですけど、僕は嫌なことがあると態度に出していました。小中高とコーチからもそれを指摘され続けてきましたが、『俺はちゃんとサッカーやってるやん、点取ってるし、チームのためにいいプレーしているやん』って、気にしていなかった。プロになってからもそうだったと思います。監督は、そういうものが見えるじゃないですか。指導者になってわかりましたが、そういう子って見えるんですよ。レヴィー(クルピ監督)に直接言われたことはなかったですが、(当時のヘッドコーチの)マテルから何か言われて、気に入らない顔をして聞き流していた自分の姿をレヴィーは見ていたはずです。後悔していることは、いっぱいあります」

 現役最後のクラブは、J3の町田だった。移籍を繰り返した白谷は、いつしか監督にとって使いづらい選手になっていた。
「町田に行くとき、正直、J2よりも下のカテゴリーに行くならもうサッカーをやめようと思っていました。自分で自分をもう見ていられなくて…結局は町田に入ったんですけど、そこでも同じような過ちをしました。サイドバックをすることになったんですが、そういうのも耐えられなくて、サッカーがより嫌いになっていくし、これ以上はしんどいなと考えて、引退を決めました。指導者になるつもりはなく、絶対にサッカーから離れる、と思っていました」

 京都出身だったことから、関西で仕事を探そうと考えていた時、セレッソから「スクールコーチをしてみないか」という誘いがあった。
「僕は、セレッソで活躍ができなかったのがすごく心残りでした。ほかのチームでもそうですが、プロとして最初に取ってくれたセレッソに対しては、すごく申し訳ない気持ちが強かったです。セレッソのために何かできるんだったら、もう一度サッカーを頑張ろう、頑張れる、そう思いました」

 5年ぶりに帰って来たセレッソは、白谷の目にどう映ったのか。
「まず、セレッソのスクールやコーチの体系がすごいな、こんなに考えてやっているんだと驚きました。サッカーを教えるということに対して、ここまで考えているんだ、すごい組織だなと改めて思いました。
 外に出たら、セレッソのすごさってよくわかるんです。どのチームに行っても、セレッソがナンバー1だなと思いました。今J2にいても、セレッソって話題性があるじゃないですか、すごいですよ。居心地はいいです、すごく。関西だし、トップとスクールの雰囲気はまた違いますけど、大阪だなって…。セレッソには、どんな形であれ、帰りたかった。帰ってきて…よかったです」


どちらかというとデスクワークは苦手。しかし何にでも一生懸命、がむしゃらに取り組んでいる

 離れてみてわかったセレッソの良さはたくさんあった。
「たとえば、寮のごはんです。よく考えたら、秀島(弘)寮長のごはんって、すごくうまかったなって。でも、寮にいたときは、いつも『違うところで食べようかな』なんて考えていました。秀島さんにはよく叱られましたけど、あの頃の自分は本当にのぼせ上がっていて調子に乗っていたから、いつも心の中で『何言うてんねん』と思っていました」

 セレッソ復帰1年目の2015年は、サッカースクールで子どもたちを指導した。重ねるのは、幼かったころの自分の姿だ。
「子どもたちは一生懸命にやります。特に小さい子たちがボールを追いかけている様子を見ると『わあ、かわいいな』と感じますし、無心にボールを触っている姿を見ると『そうそう、そういうのが大事なんだよ』って思います。
教え方のコツですか?僕が、こういうふうになってしまったから、自分が教える子たちには、絶対そうなってほしくないです。今、みんなはサッカーが大好きだからやっていると思うので、そのままの気持ちをずっと持たせてあげられるようにしたい。好きなら、自分で努力しますよね。努力というより、ただ夢中なんですよ。そうさせてあげたいなというのが、すごくあります。指導はへたくそですけれど、熱意は伝わると思って誰よりも声を出して、熱量や勢いで1年間やってきました」

 がむしゃらに取り組んだ、コーチとしての1年目。指導については、まだまだ足りないと自負している。へこみそうなときは、自分に言い聞かせている。「我慢しろ」と。
「セレッソに対しては、感謝の気持ちのほうが大きいから、何があっても我慢、です。ここに帰ってこられて、ありがとうございます、っていう気持ちです。帰って来て、本当に良かった。今自分が感じている、指導者としてのしんどさやメンタルを、選手の時に知っていれば、監督やコーチへの接し方が変わったのかな、もっとリスペクトできたかなと思うことがあります。たらればですけどね」

 スクールで指導する姿は、驚くほど気遣いに満ちている。こまめに子どもたちに声を掛け、自らも積極的にボールを触り、軽快にプレーを見せる。「サッカーを嫌いになってほしくない、ずっと好きでいてほしい」という思いがひしひしと伝わってきた。
 すばらしい才能を持ちながら、選手としては結果を残せず、悔いが残る現役生活だった。しかし、今から取り戻すことはきっとできる。後進の指導に全力で取り組む彼に、期待したい。 

文・構成 横井素子



【しらたに けんと】
1989年6月10日生まれ、京都府出身
長崎県・国見高校から2008年にセレッソ大阪入り。スピード、テクニック、運動量を兼ね備えたFWとして期待された。2010年2月に水戸へ、同年6月には岡山へ移籍。2012年に熊本、2013年8月に町田に移り、2014シーズンを最後に、現役を引退した。J2通算61試合出場7得点、J3通算1試合出場0得点。
2015年、サッカースクールコーチとしてセレッソ大阪に復帰した。
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