新しいシーズンは、鹿島のトップチームコーチに就任することが決まった羽田憲司。セレッソサポーターには驚きのニュースだったが、そこには将来を見据えた熱い決意があった。指導者としての3年間で得たもの、感じたこと、そしてセレッソへの思いを聞いた。

自分なりに頑張った2015シーズン
コミュニケーションが足りなかった


「オフ・ザ・ピッチの肖像」に、そろそろ登場してもらおうと考えていた。本人も、「僕は次ぐらいですか(笑)」なんて言っていたから、シーズンが終わったら…と思っていた矢先の移籍話だった。
 話を聞くのは難しいかなというタイミングだったが、本人から「セレッソを去るにあたって、話しておきたいことがある」と聞いて、実現したのがこのインタビューである。

選手として4年間、指導者として3年間、セレッソのために尽力した

 2015年12月27日、南津守のクラブハウス。グラウンドでは、セレッソ大阪堺レディースの選手たちが年始の大会に向けてトレーニングしているだけで、館内はひっそりしていた。
「鹿島からオファーをもらったのは、幸せなことです。役職はトップチームのコーチ、(2015年の)セレッソでの立ち位置とほとんど同じです。オファーをもらって、迷いました。悩みました」

 セレッソからも契約の話があったことで、進路についてはずいぶん考えたという。結論は、鹿島への移籍だった。
「今年(2015年)はトップチームに移りましたけど、自分の中では、やってやろうという強い気持ちがありました。選手をサポートしたり、監督と選手の間に入ったりしてうまくやれるのは僕しかいない。現場スタッフで選手と一番近いのは、自分だと思っていたから」

 熱い思いを秘めて迎えたシーズン。奇しくも、羽田が選手として移籍してきた2007年と同じ、「J1昇格」を目標にした戦いだった。
「1年間、いろいろありましたし、いろいろなものが見えました。パウロ(・アウトゥオリ前監督)とは、鹿島でも一緒になったことがあったので、どんな人かはわかっていました。でも、鹿島の時はもっと怖かったですね。もっとピリピリしていた。今回はだいぶ丸くなったなあと感じました。パウロは、基本的に『自分が監督だから、自分がすべて決断する』という考えの持ち主で、自分の信念は曲げない人。監督だから仕方ないと思うけど、最後までパウロは貫き通しました。『ここで信念を曲げたら自分じゃなくなる』とは、僕にもよく言っていました」

 パウロ・アウトゥオリ氏はシーズンの途中で退任。チームは、4位に踏みとどまりJ1昇格プレーオフに臨んだものの、目標達成はならなかった。
「自分なりに精いっぱいやったつもりです。力は足りなかったと思いますけど、やりましたね。選手の言葉を聞いたり、立場的に選手には言えないこともありましたけど、自分なりに話をしたりはしました。でも、この1年に関しては悔いが残ります。精いっぱいやったけど、力が足りなかった。チームに一番足りなかったのはコミュニケーションだったと思っています」

 2014年は、U-18のコーチを担当した。2014年12月には、高円宮杯U-18サッカーリーグ2014 チャンピオンシップで優勝するという結果を残した。
「高校3年生が比較的多い、経験を積んでいたチームで、いい選手がいて、全国的に見ても強いチームだったのかなと思います。楽しかったです。難しいこともありましたけど、U-18というプロに一番近いところで仕事ができて、勉強になりました。大熊(裕司)さんの下で、毎日勉強させてもらった気がします。コーチとしての1年目(2013年)は、スクールを経験させてもらいました。スクール、育成、トップと1年ずつだったけど、それぞれのマネジメントの部分も見ることができて、浅いかもしれないですけど、すべてを見させてもらって、経験させてもらいました。なのにクラブを出て行くのは、しかも何も残していない状態で出るというのは、申し訳ない思いです」

2nd HALFへつづく

文・構成 横井素子



【はねだ けんじ】
1981年12月1日生まれ、千葉県出身
2007年から2010年までは選手として、2013年からは指導者としてセレッソ大阪に在籍。
選手時代は、優れた守備能力と冷静な判断でディフェンスの中心として活躍した。2009年、2010年はキャプテンとしてチームを引っ張った。現役引退後の2013年はセレッソ大阪サッカースクールのコーチとして復帰。2014年はU-18のコーチ、2015年はトップチームのコーチを歴任した。2016年、鹿島のトップチームコーチに就任。