2014シーズンに何が起こったのか?
For The Top of Dreamsに込めた思い

大阪サッカークラブ株式会社代表取締役社長 玉田 稔



2015年、セレッソ大阪は2009年以来6シーズンぶりに戦いの場をJ2に移した。公式ファンサイトは、この厳しい状況下で舵取り役を任された新社長のインタビューでスタート。今年2月に就任した玉田社長が、ファン、サポーターの皆さんに向け、本音で語った。
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■昨シーズンは大きな期待を集めてスタートしながら、残念な結果でした。
「ファン、サポーターの皆さんの期待を裏切るつもりはまったくなかっただろうし、そこがサッカーの難しいところ。実体験で話をすると、私が大学のときに全国で4位になり、次のシーズンにセンターフォワードとセンターバックが抜けても、代わりはいるから大丈夫だろうと予想したら、関西で7位になってしまったことがありました。

いい選手がいたら勝てるかというとそれは絶対NOで、去年のセレッソでいうと、やっぱりフォルランの存在というのは大きかったと思いますね。フォルランの使い方や、彼と若手との融合というのはそう簡単にいかない。全く年齢の離れたスーパースターが来て、動じずにやれる人間もいるかもしれないけれど、やっぱり彼にボールを集めないとアカンとなると、簡単ではなかったはず。今年も、フォルランにボールを集めるというのはあるかもしれないけれど、去年の集め方とは違うように感じます。
 彼にボールを集めて周りがサポートする、フォルラン自身ももう少し動こうとしているのもあるかもしれないし、うまく彼を生かそう、ボールを出さなくても自分たちが活きるようにしようということが、玉田(圭司)や関口(訓充)なんかはできているんじゃないかなと感じます」


■昨シーズンの成績不振、降格の原因については、どう感じていますか?
「いろいろなことがありました。強化部や監督の問題、主力選手の移籍、大物外国籍選手の獲得、負傷離脱する選手が多かった…原因として考えられることはいくつもあったと思います。でも、その元はなんなんだというと、私はガバナンス、統治能力というもの、クラブとして、チームとしてどっちの方向を見て走っていくんですかという強いものがなかったのではないかと感じます。いい選手を取ってきたけれどうまくいかないから監督を代えた、最後には強化部長を代えた…すべて対処療法に終わってしまったのが、去年なのではないか、と。『この監督のこういうところがダメだったから、次はこういう監督にしなければならない』というものが、チームとしてのコンセンサスになってなかったのではないか、それは選手の補強についても同じことが言えるのではないか。悪く言えば”パッチあて”のような、よくいえば臨機応変に対応したのかもしれないけど、それは外から見て感じました。
 いくつかの要因があったにしても、きちんとしたガバナンスのもとで管理されるべきであって、大切なのはベクトル合わせができているかどうか。枝葉はいろいろある、でも本筋はどこを見ているんやということです。古い話だけれど、メキシコ五輪のチームは、選手はみんなムチャクチャ個性が豊かで、普段仲の良くない人もいた。そんな個性集団を監督が適材適所に選手を当てて、戦術を理解させた。ここにボールを出すよう要求させて、ボールを出して…そうやって能力を活かしていくのがチームであって、その考え方は一つの会社にも当てはまるし、いろんな組織にも当てはまる。セレッソにおいて、サッカーの部分は強化部に任せているけれども、組織づくりについては私が責任を持ってやらないといけないなと思っています。クラブには個性豊かな人たちがいるだろうから、それを同じ方向にまず向かせるのが、私の仕事です」


■シーズン初めに、選手・スタッフにはどんな声をかけましたか?
「3月6日に舞洲グラウンドに行って、選手にはひと言だけ話をしました。それは、『1試合1試合では考えないでほしい。42試合という非常に長いリーグのなかでは、いろんなことがある。とにかくあなたたちにお願いするのは、戦うというスタンスだけは持ち続けてほしい』ということです。クラブスタッフにも言っているのが、『一喜一憂するな』。当然勝ったら喜んで、点が入ったら喜ぶのは当たり前だけれど、はしゃいだらイカン。逆に負けても落ち込んだらイカンと。これは非常に難しくて、自分に言い聞かせているみたいなものだけど(笑)。前の会社にいるときから好きだったのは、『一歩一歩着実に前進する』ということ。そうしていれば、好条件になった時にどーんと伸びた経験をしているから。本当は1日でも早く昇格したいと思うのは当然なんだけど、そう簡単ではないというのは実体験としてあります。42試合、9カ月間という長い間には、選手の入れ替えもあるし、ケガもあるだろうから、何があっても動じないという気持ちでやっていきたいというのが、今の気持ちです。と、口で言っているものの、神経質なので胃でも悪くするんじゃないかなと思っています(笑)」


 ■今シーズンのスローガンは、クラブ創設時に掲げた「For The Top of Dreams」です。
「クラブを作ったとき、最初からはJリーグに加盟できなくて、2年後に上がろうとしたとき、みんな何を考えてやっていたのかと思い返したんです。出資社を募ってまわって、『日本一大きなスタジアムができて、それをホームにしたチームができて、スタジアムがいっぱいになったらこうなります』という絵を描いていることを話しました。その時につけた名前が『セレッソ』で、これは大阪を代表するチームになり、いずれは日本を代表するチームになりますという思いを込めてつけたもの。実際に私たち自身がそう思ってスタートした、そこに戻りたいという思いです。
 みんなが努力をして、どこかでタイトルを取りたい。Jリーグと言ったら、セレッソの名前が出るようにしたい。今、もしかしたら海外ではそうなっているかもしれないけれど、国内ではタイトルが取れていないのが一番問題です。そう簡単には取れないかもしれないけど、あと一歩まで何回か来ているのに取れなかった。初心に帰って、もっと謙虚にセレッソ大阪というチームの名前に込められたものを実現しようやないか、というのが素直な気持ちです。
 95年にJリーグに昇格したときに、開幕3連勝した。山橋(貴史)のVゴールで始まったわけだけれど、あのころの謙虚さ、一生懸命やるというのがサッカーの原点。今年トラッキングデータシステムというのがJリーグで始まったけれど、開幕戦の東京ヴェルディの試合のデータがあるなら、走力では多分負けていると思う。戦略・戦術によって変わってくるかもしれないけれど、基本は走るということと、動く、ボールを止めて蹴るということ。あとはメンタルのところで、ベースをいかに上げるかということ。アウトゥオリ監督もそう思っているように感じます。
 日本一のクラブになるというのは、単年でポコポコと出てくるのではなくて、日本のJリーグを代表するチームってどこやとなった時に、今だったら鹿島アントラーズ、浦和レッズ、ガンバ大阪というのが出てくると思うけれど、そこにセレッソがあってほしい。『セレッソ』という意味合いをもっとみんなが理解して、まだ実現できていない夢に向かって、初心に戻ってやろう、というのが私の意志です」


構成・文 横井素子

《プロフィール》

代表取締役社長
玉田 稔(たまだ みのる)

■生年月日:
1953年(昭和28年)7月10日(61歳)
■出身地 : 
兵庫県
■経 歴 :
・1977年 3月|関西学院大学 経済学部卒業
・1977年 4月|ヤンマーディーゼル株式会社(現 ヤンマー株式会社)入社
・1992年11月|同社 サッカープロ化推進部推進グループ 課長
・1994年 1月|大阪サッカークラブ株式会社 事業部長
・1997年 4月|同社 取締役 企画・広報部長            
・1998年 6月|ヤンマーディーゼル株式会社 GHP営業部 課長
・2000年 6月|同社 エネルギーシステム事業本部 空調システム営業部長
・2003年 3月|ヤンマーエネルギーシステム株式会社 名古屋支店 支店長
・2004年10月|同社 大阪支店 支社長
・2005年 3月|同社 取締役 営業部長
・2007年 6月|同社 常務取締役 営業部長
・2008年 3月|同社 代表取締役社長(ヤンマー株式会社 執行役員エネルギーシステム事業本部長 兼務)
・2013年 4月|(ヤンマー株式会社 常務執行役員エネルギーシステム事業本部長 兼務)
・2015年2月1日|大阪サッカークラブ株式会社 代表取締役社長就任