今シーズン、セレッソ大阪の指揮を執る尹晶煥監督。2000年から3シーズンは選手としてセレッソに在籍、韓国代表としても活躍したファンタジスタであった。華麗なパスで攻撃陣を操るプレーを記憶している人も多いだろう。
指導者としては厳しいトレーニングで鳴らす氏が、セレッソにもたらすものとは?期待が集まる新監督に話を聞いた。


■15年ぶりにセレッソに帰ってこられました。変わったなと感じる部分はありましたか?
「クラブハウスが素敵になりましたね(笑)。選手も自分がいた頃より、さらにいい選手がそろっていると感じます」

■2000年から2002年まで在籍されましたが、思い出に残っていることはありますか?
「思い出は3つあります。(2000年J1リーグ戦1stステージで)優勝できそうなところまでいったのにできなかったこと。すごく残念な思い出として残っています。優勝を逃したこともそうですが、当時最下位のチーム(川崎フロンターレ)に負けてしまったことが特に残念でした。
その次の年には、J2に降格してしまったのは、本当に悲しかったです。でもその翌年にはすぐにJ1に昇格できて、そのときは本当にうれしくて、大勢の方々と喜びを分かち合うことができました。すごく頭に残っています。ですから、その翌年(2003年)にチームを離れることになったときはとても悲しかったです」

■2001年はJ2に降格したシーズンでしたが、高校を卒業した大久保嘉人選手が加入した年でもありました。尹さんは彼をとてもかわいがって、よく面倒を見られていましたが、大久保選手は今では日本を代表するストライカーになりました。
「私は彼がここまで成長できると信じていました。最初にセレッソに練習をしに来た時から、彼は本当にいい選手になれるだろうと思いました。ですから、本当にかわいがったし、何かをしてあげようと思っていました」

■尹さんが選手としてプレーされた当時のセレッソは、ワクワクする、見ていて楽しいサッカーだったと記憶しています。
「本当に楽しくやりましたね、プレーしていておもしろかったです。そういえば、思い出はもう1つありました。(2001年の)天皇杯です。決勝まで行くことができましたが、清水エスパルスに敗れて、そのときも優勝を逃しました。あのときはモリシ(森島寛晃)のミスからボールを奪われて負けた…(苦笑)。3年間でいろいろな経験ができましたね」

■今はその森島さんがチーム統括部(フットボールオペレーショングループ部長)にいて、一緒に仕事をしています。いかがですか?
「モリシと一緒にいれば楽しいです。いろいろな話をします。もちろん仕事の話もしていて、お互いにチームのために仕事をしようという気持ちで接しています。彼はとても話をしやすいですし、友人としても、同僚としてもいい関係です」

■2014年にサガン鳥栖の監督を退任し、韓国で監督をされていましたが、いずれ日本で…という気持ちはありましたか?
「もちろんです!日本で長く、10年近く生活していたら、生活や感覚が日本のものに慣れ過ぎて、逆に韓国の文化に慣れるのがすごく大変でした。ものすごく違いがありますから。サッカーについても、多くの違いがありますしね」

■今回、セレッソ大阪からのオファーを最初に聞いたときはどう感じましたか?
「実はセレッソからは以前にも一度、オファーをもらったことがあります。今回もオファーをもらって、すごく感謝の気持ちがありました。そしてもうひとつ、非常に強い責任感があります」

■責任感というのは、クラブからの期待の大きさを感じてのことですか?
「クラブだけではなくて、自分を愛してくださっている、大勢のサポーターの方々がいらっしゃるからです。その方々の期待に応えるためには、しっかりやらないといけないと思っています。
鳥栖にいたときに、セレッソとの対戦で大阪に来たとき、私を温かく迎えてくれるサポーターに感動しました。このチームに戻って来たいと思うようになりました。OBとしては初めての監督で、大勢の方に期待していただいていることを感じています」

後編につづく

構成・文 横井素子
インタビュー:2月7日@宮崎キャンプ