2015年2月に就任した玉田稔社長が、2018年末で退任することが決まった。2015年、2016年のJ2リーグでの戦い、J1昇格、そして2017年には悲願のタイトル獲得……。激動の4年間を振り返るとともに、森島寛晃新社長のもとで始まる新時代への期待についても聞いた。

重かった2015年の監督交代の決断
J1昇格の翌日、初めて涙が…

■就任直後からクラブのベース構築に着手
「就任してすぐに、『組織としておかしい、なにか変だな』というところがありました。みんな一生懸命やっているのにバラバラだと感じたので、随分意識して取り組んだつもりです。会社としてのベースの部分を整えることや、報連相(ホウレンソウ=報告・連絡・相談)をちゃんとして情報の共有化しようということ、あいさつをきちんとしようというところからやりました。それは最初の2年間(2015~2016年)でかなりできるようになったと思います。4年前は大変な状況でしたが、社員のみんなの頑張りで、今は組織として整いつつあるかなというところです」

■2015■
J2リーグでの戦い

「就任当初は、18年前(前回セレッソに出向していた時)のイメージから『なんとか1年で上がれるだろう』と思っていました。が、2015年は夏場に負けが混んでリーグ戦で4位、J1昇格プレーオフに出ました。
 決勝 では、関口訓充と玉田圭司のコンビで点を取ってリードしたものの、残り3分でアビスパ福岡の中村北斗選手に決められて引分け。あの同点ゴールの場面を振り返ると、左サイドにボールが振られたときに、扇原貴宏が必死で戻ってきた。それによって(キム)ジンヒョンのブラインドになってしまったんです。もし、戻るのが間に合わず1対1になっていたら、ジンヒョンが体に当てたかもしれない…とかも考えました。1-0のまま逃げ切れるかというときに、『就任1年目に昇格できるなんて、自分は持っているのかな』とチラっと思った瞬間、夢が消えましたね(苦笑)」

■シーズン途中で監督交代を決断
「社長就任1年目はパウロ アウトゥオリさんが監督を務めましたが、リーグ戦残り1試合のタイミング、長崎戦(第41節)の後に辞めてもらう決断をしました。理由は、J1昇格プレーオフに勝ちたかったから。このままだったらチームはバラバラのままだから、雰囲気を変えないといけないと考えました。
 その数試合前の北九州戦(第36節)のあとのミーティングで、ブラジル人選手が『アウトゥオリ監督は辞めるんだな』と思ったぐらいの言葉を口にしたと聞きました。彼はかなり疲れていたと思います。解任するとなったら違約金も発生するし、リスクも大きい。それでも、このままではアカンという判断でした。あれは4年間で一番大きな決断だったなと思います」

■2016■
大熊清監督のもとでJ1昇格

「前任のパウロ アウトゥオリさんは哲学論者みたいなところがあって、言葉が難しいという部分もありました。言葉の点を考えて、日本人をということで大熊(清、現チーム統括部長)に託しました。でも、この年の夏場も終盤に追いつかれてアディショナルタイムに逆転されるという試合がいくつもありました。結局J1昇格プレーオフに出て、京都になんとか引き分けて、決勝 は松本かと思っていたら岡山との対戦になって、雨の中の試合で清原翔平の1点で勝って昇格が決まりました。
 以前にも話しましたが、試合後は涙も出なくて、うれしいという感情も湧いてきませんでした。ホッとした、安堵した、肩の荷が下りたという思いでした。自分がセレッソに来て、まずやらなければならなかったことを、44試合(リーグ戦とJ1昇格プレーオフ)×2年間やってやっと果たせた、という思いでした。2シーズンとも天皇杯では無様な負け方をしていたし、最後の最後でなんとか上がれてよかった、というのが正直な感想。当日は家に帰っても涙は出なかった。翌朝になってやっと実感がこみ上げてきて、ものすごく泣きました」

雨中の2016J1昇格プレーオフ決勝。昇格を喜ぶ玉田稔社長と柿谷曜一朗選手

■2017■
OBの尹晶煥氏を新監督に招へい、タイトル獲得へ

「J1で戦うことになり、強化を担当する大熊部長と目標を立てようと話をしました。シーズン前の本音は『J1残留』でした。でも残留を目標にはできない。J1リーグではシングルの順位、そしてタイトルへのチャレンジを目標にして、臨むことにしました。
 監督を誰にするかというところで、コンセプトは『ちょっと厳しめの人のほうがいい』ということでした。ブラジル人監督はチームとしてのまとまりを大事にして『チームはファミリーだ』と言って指揮を執りましたが、言葉の面で甘さがあるというか、どちらかという甘やかしながら選手にプレーをさせるという面がありました。だから、規律性を重んじる監督にしたいなということと、できれば日本語が通じる人がいいなということでリストアップし、尹晶煥さんにお願いすることにしました。
 尹さんは、決して厳しいトレーニングをしたわけではなかったと思います。シーズン初めの3部練習も、朝6時とか6時半に来て、30分間ランニングをしてという程度でハードなものでは決してなかった。規律を大事にして、選手たちの生活にリズムを持たせたいという目的でした。そしてチームを1つにまとめてくれたと思います。その結果、リーグでは優勝できなかったけれど3位といういい成績をおさめ、念願の初タイトル(ルヴァンカップと天皇杯)を獲ることができました。2017年は尹さんのもとで、チームが1つにまとまることで力を発揮し、強くなるということを証明した1年だったと思います」

クラブ初のタイトル獲得!玉田社長は「尹監督のもと、1つになった」と振り返る

■ルヴァンカップ決勝前、選手に伝えたこと
「選手の起用について、私はこの4年間で1度も口を出したことはありません。あとで、『あのときはこうしたほうがよかったかもしれない』などと話したことはありましたが、『この選手を使え』とか、『こういった戦い方をしろ』ということは一切言っていません。すべて強化担当に任せていました。選手に直接話をすることもほとんどなく、シーズンの始動のときぐらいでした。
 ただ、2017年のルヴァンカップ決勝のときは、1週間ぐらい前に、気持ちを引き締める意味で『タイトルを獲る』というコラム(大阪府サッカー協会発行の広報誌『Action for Dream』vol.19掲載、戸塚啓さんの執筆による)をコピーして選手全員に渡しました。外国籍選手には、一言一句すべて完全に訳してくれと通訳に頼みました。とてもいいことが書いてあるから、この言葉をよく理解して、強い気持ちを持って試合に臨もう、と伝えたかった。そんなふうに選手たちに話をしたのは、4年間でたった1回でした」

特別インタビュー【後編】につづく

インタビュー・構成 横井素子
インタビュー:12月21日