第18回:初めてのタイトル~「人」が作ってきたクラブの歴史①よりつづき

 ルヴァンカップ決勝のあとのミックスゾーン(メディアが自由に選手たちに取材できるエリア)に、大阪サッカークラブ株式会社の玉田稔社長の姿があった。

「うれしいです、よかったです」。というのが開口一番のコメントで、「タイトルは、1つ獲らないと2つ目はない。星を1つつけることはクラブにとって大きな財産になる」と、感無量の様子だった(当日のコメント )。クラブ発足時のスタッフで、「セレッソ大阪」の名前すらなかった時代を支えた1人。その玉田社長が初タイトルを獲ったときにクラブのトップにいることにもまた、うれしい偶然だ。

 初代の社長である鬼武健二さんも、玉田社長と一緒にルヴァンカップ決勝を観戦していたという。「しっかりせい」「どんな練習をしているんや」など、最近はお叱りの言葉を受けることが多かったが、優勝を目の当たりにし、とても喜んでくださっていたという。長い雌伏の時を経た、チーム始動から24年目のタイトル。懐かしいクラブスタッフが集い、喜びあえたことは、うれしい出来事だった。

 スタッフには、クラブのために尽力されながらすでにこの世を去られた方たちもいる。選手として、アカデミーのコーチとして活躍された久高友雄さん (1999年ご逝去)。チームの立ち上げの時、若い選手たちを鼓舞し、自らJリーグ昇格に力を注いだ。そしてヤンマー時代から選手、監督として、セレッソ大阪になってからはクラブスタッフとしても尽力された吉村大志郎(ネルソン吉村)さん(2003年ご逝去)。どこまでもやさしい方だったが、サッカーに懸ける情熱や選手への指導は熱かった。

 2000年当時、チーム統括部長だったのが大西忠生さん(2006年ご逝去)。「なんとしてもセレッソを強くしたいんや」が口癖で、副島博志監督(当時)を抜擢して「攻撃のセレッソ」の礎を作った。同年5月27日の川崎フロンターレ戦に敗れはしたが、セレッソの攻撃的なサッカーがメディアの皆さんからは高く評価された。記者会見で副島監督に拍手が送られたことを伝えると、微笑んでうなずかれていたのを覚えている。当時広報担当だった私の、「5.27」の一番の思い出はその場面である。

 昨年この世を去られた秀島弘さん (前セレッソ大阪選手寮寮長)も、タイトル獲得を切望していたひとり。「早くタイトルを獲ってほしい。育成から出てきた子たちが活躍して優勝してほしい」が口癖で、寮生の話になると、いつも話は途切れなかった。あの健勇が決勝でゴールを決めて、あの蛍がチームの中心として活躍して、あの曜一朗がキャプテンとしてカップを掲げましたよ、と伝えたい。


 初優勝を見ることなく、天国に旅立たれたサポーターの皆さんにも思いを馳せる。セレッソを愛した皆さんの、数えきれないほどたくさんの思いがつまったのが、今回のタイトルだ。ルヴァンカップ決勝で、ゴール裏に浮かびあがったピンクのカップ。あのコレオグラフィーはサポーターの皆さんの力の結集であり、クラブを思う人たちの熱い思いの凝縮であった。4年前、拙著『セレッソ・アイデンティティ』のなかで、「人と人とのつながりが、クラブを大きくし、強くしてきた」と書いた。今、その思いをいっそう強くしている。

 優勝の瞬間に立ち会い、表彰式の様子を見ても不思議に涙はこぼれなかった。試合後しばらくたって、マイセレに掲載されたサポーターの皆さんの写真 を見たとき、スタジアムで静かに涙を流しておられたサポーターがたくさんおられたと聞いたとき…初めて泣けてきた。

文・横井素子

第16回:初めてのタイトル~みんなのルヴァンカップ①
第17回:初めてのタイトル~みんなのルヴァンカップ②

◆横井素子 プロフィール
奈良県奈良市生まれ。広告代理店勤務のあと、フリーランスの編集・ライターとしてセレッソ大阪の広報ツールの制作などに携わる。
1999~2000、2008~2011年はセレッソ大阪トップチーム広報担当、現在はセレッソ大阪堺レディース広報担当、セレッソ大阪公式ファンサイト編集責任者を務める。