18年ぶりのセレッソ大阪 驚きと違和感

大阪サッカークラブ株式会社代表取締役社長 玉田 稔



2015年、セレッソ大阪は2009年以来6シーズンぶりに戦いの場をJ2に移した。公式ファンサイトは、この厳しい状況下で舵取り役を任された新社長のインタビューでスタート。今年2月に就任した玉田社長が、ファン、サポーターの皆さんに向け、本音で語った。


■1998年以来、18年ぶりのセレッソ大阪への「復帰」。最初に感じたことはなんですか?
「一番驚いたのは、舞洲のクラブハウスのすごさです。天然芝のグラウンドが2面、クラブハウスには設備の整ったロッカールームがあり、今年に入ってからはラボ(セレッソ大阪LAB)も開設された。18年間で、こんなにすばらしいものができているとは…本当にびっくりしましたね。1998年当時は、以前の舞洲グラウンドで練習をしていて、クラブハウスは木造2階建て、マスコミ対応などの部屋はコンテナハウスの2段重ね。それでも、最初のヤンマーの尼崎グラウンド(当時は土のグラウンド)からようやく天然芝のグラウンドができて、曲がりなりにもクラブハウスというものもできたという時代でした。私がセレッソを離れたのが、ちょうど南津守の練習グラウンドの計画段階だったころ。『こういう広さで、天然芝と人工芝のグラウンドを作って、クラブハウスも作ろう』という絵を描いたところで、ヤンマーに戻りました」


■この18年の間、セレッソとのかかわりはありましたか?
「ヤンマーの仕事に携わるようになってからは、サッカーにはノータッチでした。多くて年に3試合か4試合しか見ていません。香川真司選手が入ってきた、柿谷曜一朗選手がむちゃくちゃうまいという話は聞いていたけれど、それぞれ1回ぐらいしか実際にプレーしているところは見ていない。あとは、2009年のモリシ(森島寛晃)の引退の時、(香川)真司と交代したのを見て、『真司との交代? なんで一緒にプレーさせてくれないの』『もっと早くモリシを出してよ』と思ったことは覚えています。あと、印象的な試合は、2011年の乾(貴士)のラストゲームでのPKのシーンや、ACLの全北現代戦で(キム)ボギョンがケガをした試合(準々決勝第2戦/アウェイ)、ガンバ大阪と対戦して高橋大輔がゴールをして勝った試合(ACLラウンド16/万博)、それぐらい。サッカーに関しては、ほとんど浦島太郎状態でした。けれど、セレッソ大阪のことはずっと気になっていたし、興味を持って見ていました」


■1994年にJリーグ参入を目指してスタートしたときは、スタッフとしてかかわっていました。
「セレッソに戻って一番感じたのは、あのころは、昇格に向けてみんなが同じ方向を見てやっていたのに、今はバラバラだなということ。もちろん長居の事務所にいるクラブスタッフは一生懸命やっているし、舞洲のスタッフも、選手も一生懸命やっている。でも、94年に『とにかくJFLで勝って2位以内に入らないと上がれない』と思い、95年には『やっとつかんだJなんだから、なんとかのびのびプレーして上を目指していこう』という思いがみんなにあったことを考えると、今ここに来たら、ちょっと違う。そんな違和感を覚えました。それは何なんだというと、去年降格した理由がそのあたりにあるんじゃないのかな、と。そこを総括しないといけないなというのが、今の正直な感想です」


■具体的には、どのようなことをされるのでしょうか?
「私が前にいた会社は、平成15年にできた会社で、売り上げの規模は年間500億円ぐらい。みんなが一生懸命働いて、土日も出て会議をしても売り上げは伸びず10億円の赤字が続いて、最初は1年ごとに社長が代わっても状況は変わらなかった。それが、次に来た社長がなんでこんなに赤字が出るのか、という分析をして大鉈をふるった。そうしたら3年間で6~7億円の黒字が出るようになった。そのあと、私が社長に就いたときは、売り上げは伸びなく、年々少しずつ下がっていったけど、利益は上がった。そして東日本大震災のあとに売り上げが上がると、利益もぐんと上がりました。その間、土日の会議は一切なし、残業は原則禁止。社長含めて部門長は定時になったら帰りなさいと徹底した。そういう取り組みが結果につながったんです。
 セレッソに来て行ったのが、まず『整理整頓』です。それぞれが自分の仕事の整理整頓をして、どういう方向に向かってやっているかチェックをしようと考えました。情報の共有化ということで、誰のスケジュールもみんながわかるようにしたり、あとは事務所内のかたづけ。雑然としているものをきれいにしなさい、ということです。少しずつかもしれないけれど、みんなが同じ方向を見ていくようにしていく。進んでいる方向はこっちだよ、ということを共有できるようにするのが今の一番大きな仕事かなと考えています」


■チームづくりに関しては?
「私自身は、基本的には強化には口出しはしません。これは、監督と強化部長に任せています。ただ、危機管理はしないといけない。たとえば選手が代表チームに招集された場合や、選手が移籍するかもしれないという場合、万一監督が病気になったら…というリスクに備えることは必要です。強化部長や監督を選んだのは私ではありませんが、当時担当していた宮本(功 取締役事業担当/当時は強化本部長)とは話をしていて、彼が考えたことを私が承認した形で選んだ強化部長であり、監督です。なので、彼らの仕事に口出しすることはありません」


■今年の目標はJ1復帰。そのほかにパウロ・アウトゥオリ監督に望むことはありますか?
「それについては、監督が話していることとまったく同じです。こんなにたくさんの選手をアカデミーで育ててきたいい流れがあるので、流れを絶やすことなく、なおかつほかのチームから補強をして、外国籍選手も呼んできて、チームづくりをしていってほしいということです。サッカーの試合は難しいと思いますが、1年間を戦い抜くメンタリティー、技術、身体的なものも含めて、常に優勝争いができるようなチームを作ってほしい。今年はそのベースを作っていくシーズンにしてほしい。すごく難しいことだと思うけれど、クラブができてもう20年以上経ったわけだから、もう一回やり直すべきなのではという気持ちです。だから、1年でJ1に上がってまたすぐに落ちるチームではなく、しっかりベースを作って上がって、そこから優勝を狙えるチームづくりを今、今の監督のもとでやるべきではないかと考えています」


■育成型クラブという点では、近年成果が出始めています。
「せっかくいい流れがきていて、アカデミーからいい選手がたくさん上がっています。うまく育ててトップに出していけばいいけれど、うまく育つ前に移籍してしまっているという事実もあります。そこは課題があると思うけれど、止めるのはむずかしい部分もあって、出ていきたい選手は出ていってもいい、ただそれがクラブのためになるような方向づけ、たとえば出て行ってもまた帰って来られるようにするとか、せっかく長い間セレッソで育ってきた選手たちなので、クラブにプラスになるようにできたらいいな、と考えています」



構成・文 横井素子

 Vol.1【後編】につづく

《プロフィール》

代表取締役社長
玉田 稔(たまだ みのる)

■生年月日:
1953年(昭和28年)7月10日(61歳)
■出身地 : 
兵庫県
■経 歴 :
・1977年 3月|関西学院大学 経済学部卒業
・1977年 4月|ヤンマーディーゼル株式会社(現 ヤンマー株式会社)入社
・1992年11月|同社 サッカープロ化推進部推進グループ 課長
・1994年 1月|大阪サッカークラブ株式会社 事業部長
・1997年 4月|同社 取締役 企画・広報部長            
・1998年 6月|ヤンマーディーゼル株式会社 GHP営業部 課長
・2000年 6月|同社 エネルギーシステム事業本部 空調システム営業部長
・2003年 3月|ヤンマーエネルギーシステム株式会社 名古屋支店 支店長
・2004年10月|同社 大阪支店 支社長
・2005年 3月|同社 取締役 営業部長
・2007年 6月|同社 常務取締役 営業部長
・2008年 3月|同社 代表取締役社長(ヤンマー株式会社 執行役員エネルギーシステム事業本部長 兼務)
・2013年 4月|(ヤンマー株式会社 常務執行役員エネルギーシステム事業本部長 兼務)
・2015年2月1日|大阪サッカークラブ株式会社 代表取締役社長就任